月の夜に 
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「わぁ、大きな月」
住んでいた自分の世界に比べると京の空気はよほど澄んでいて、月が冴え冴えと美しく輝くのがよく見える。
今夜はことのほか大きく煌々と輝く月にあかねは歓声をあげた。
「望の月でございますね」
あかねの夜着を用意するために部屋に入ってきた女房も端近に寄って月を見上げた。
「うさぎのお餅つきがよく見えるね」
「え?兎・・・でございますか?」
「あ、うん。そうだよ。ほらあの月の模様がなんとなく兎が杵を持ってお餅を搗いているように見えない?」
「ああ、そういえばそんなふうにも見えますね。あのあたりなんかお耳みたいですわね」
感心するように再び月を見上げる女房の素直さがかわいらしく思えてあかねはくすくす笑った。
「神子さま?」
月からあかねに視線を移した女房は怪訝そうに声を上げた。
「ううん。そういえば、竹取物語だっけ?月といえば」
「なよ竹のかぐや姫のことですね?」
「うん。月を見るとね、小さい頃にお母さんに読んでもらった絵本を思い出すの」
「絵本・・・ああ、絵草紙のことですね。そうですか、神子さまの世界にもなよ竹のお話はあるのですね」
「うん。月の世界からきた絶世の美人。たくさんの男の人から求婚されるけれど誰のものにもならないで月に帰っていく・・・そんなかぐや姫に憬れたものよ」
「まぁ・・・」
そう月を見上げながら話すあかねの横顔をまぶしそうに女房が見つめた。
女房にとってはあかねも物語のかぐや姫と等しくまぶしい憧れの存在なのである。
龍神の神子姫。
むしろ異世界から来たこの斎姫は鬼と戦い、京を救ってくれた。何ももたらさなかったかぐや姫などより女房にとってはよほど有難い存在であったのだ。
神子が異世界に帰らずこの京に残ってくれていることが何よりも嬉しい。
そしてそれは京の安泰が約束された気がして心丈夫だという身勝手な理由よりも、天真爛漫なあかね自身の魅力に女房が魅せられているせいでもある。
そして一番の理由は女房が心を寄せる男のためであった。


そのときである。
どこかから風に乗って「アオーン」という遠吠えが微かに聞こえてきた。
「わ・・・犬?それとも狼?」
「犬でございましょう。人里・・しかもこの都に狼が現れるとも思えませんし」
「そっか。やっぱり満月を見ると吼えたくなるものなのかしらね?犬はもともと狼が飼いならされたものだというし」
「まぁ・・そうなのですか?」
「ええ、そうらしいのよ?」
「さすが神子さまですね。物知りでいらっしゃって」
「やだ、向こうの世界ではこんなの普通なの」

向こうの世界・・・神子の言葉に女房は見ることも無いであろう異世界に思いをはせる。いったいどんな不思議な世界なのだろうか。神子が時折話してくれる向こうの世界の事象は女房にとって想像を超えた不可思議なことばかりだった。

「月をみてふるさとを思い出したりしてるのかしら」

ぽつりと漏らされた神子の一言に女房はぎょっとして我に返った。

「み、神子さま、お肩が冷えておしまいになっていらっしゃいます。ささ、早く中にお入りくださいませ」
「ん、そうだね」
「夜着をお持ちしましたのにわたくしったら」
あかねの着替えを手伝って、挨拶を済ませその場を辞すると女房は渡殿の曲がり角ではぁっとため息をついた。
あかねがなぜ元いた異世界に帰ろうという気を起こさないのかは女房にはわからなかった。けれど神子がいなくなってしまったらどんなに主の藤姫や八葉たちが落胆することだろう。
「・・・中でもあの方は」
神子と関わる中で八葉たちはそれぞれ大きく変化してきたと思う。中でも激変したのが陰陽師安倍泰明であった。
最初のころは取り付く島もなかった彼だが 最近では随分雰囲気がやわらかくなった。それが龍神の神子の影響であることは明らかだ。
泰明の神子を見る目は優しい。
それを見ていると女房の心も温かく、嬉しくなってくるのだ。
そう、女房が密かに思いを寄せるのはその陰陽師なのである。
己の恋の行く末はとうに諦めている。
願わくば想うひとの想いが適い神子と幸せになってほしい。
だから神子にはずっとこの世界に残って彼を支えてほしいのだ。
女房の見るところ神子の意中の人が陰陽師かどうかははっきりしない。

「お月様、どうか、あの方を連れ戻さないでください」
橘少将があかねを「月の姫」と喩えたことなど女房は知る由もなかったが、彼女にとってあかねは月からきた姫なのである。
「そしてあの方の想いが適いますように」
瞳を閉じて月に手を合わせそう呟く女房の背後に影がさす。

「月に何を願っているのだ」
「え?きゃあっ」
驚きのあまり転びそうになる女房を支えながら安倍泰明はもう一度尋ねた。
「何を願っていた?」
「泰明さま。いきなり後ろに立たないでくださいとお願いしたではありませんか」
「足音は響いていたはずだが」
「そ、そうですか?」
ようやく泰明の腕から体勢を立て直すと女房は真っ赤な顔で身なりを整えた。
「神子さまなら先ほど寝所に入られましたがまだ起きていらっしゃると思います。お取次ぎいたしましょうか?」
「いや。ならば明朝出直そう」
「そうですか」

また風に乗って遠吠えが聞こえた。

「あ、また。月に向かって鳴いているのでしょうか?」
「互いを呼び合っているのだろう。
泣いていたのはおまえではないのか?」
「え?今、何か仰いましたか?」
「おまえが泣いているように私には見えたのだが」
女房は頬に指をやった。
「私、泣いてなんて・・・。それともわたくし、何か口走っていたでしょうか?」
泰明が一体何時からそこにいたのかもわからず、自分の想いが思わず口をついて出てしまっていたのではないかと女房はどぎまぎしながら胸を押さえた。
「無論、声には出ていなかった」
「・・・・よかった」
声にも表情にも心からの安堵を滲ませて女房ははぁっとため息した。
「よくはない」
「え?」
「おまえの心が泣いていた。私にそれが伝わった」
「なぜ・・?」
「わからぬ」
泰明は少し考え込むように手を顎に当てた。
神子と八葉である自分に不思議な絆があるのは当然のこと。だがこの女房は・・・ただの女房にすぎないのに。
・・・確かに神子とよく似た気を持っているのは事実だが。
だがこれは考えても解けない謎だ。


「で?」
「は?」
「何を考えていたのか?」
「な、何も!」
かぶりをふるふると振りながら女房は後ずさる。
泰明の神子への想いを適えてほしいと月に願うとはお節介にもほどがあるというものである。そしてそんなことを泰明が快く思うはずは無い。

「おまえは確かに何かを願っていた。なぜ嘘をつく?」
「え、えと、それは・・・・」
「私には言えぬことか」
泰明の瞳にかげりが宿った。
「私は尋常の人とは違う。その私にはおまえの悩みや心の機微などはわかるはずも無いと思うのか?」
女房はまた吐息した。
(もう・・・・この方は)
普通の女ならばこの美貌の陰陽師にこれだけのことを言われ迫られれば自分に好意をもってくれているのだと誤解くらいするかもしれない。
が、泰明はただただ疑問をそのままにしておけないのだ。
そういう性質(たち)なのだ。
物事を突き詰めねば気がすまない。
今までの経験で女房は泰明に関するそれらのことを学んでいた。
話せば長くなるが泰明が相手の『期待と落胆』は数え切れないほど体験してきたのだった。
(ごまかして納得なさる方ではないし)
仕方なく女房は二つの願いのうちひとつだけを披露することにした。

「じつは先ほど神子さまと月を眺めているうちに『竹取の物語』の話になったのです。そのときふと神子さまがかぐや姫のようにつきに帰っておしまいになるような気がして・・・そうならないようについ願ってしまったのです」
嘘ではない話は泰明の疑いを解いたようだった。
「なるほど」
泰明は腕を組むと月を見上げた。
「竹取の物語は私も知っている。・・・が、それは間違っているぞ」
「・・・・・」
「神子は旅する者。いつまでもこの世界にとどまっていることは出来ぬかも知れぬ。神子が帰りたいと願うのならそれを留めようとするべきではない」
「で、でも・・・」
(それではあなた様が苦しい想いをなさるのではありませんか?)
小首を傾げて女房は泰明の横顔を見つめた。小首を傾げるのはこの女房の困惑したときの癖である。
「神子が願いをかなえるのが八葉の役目であり喜びだ。それは神子に仕える女房であるおまえも同じではないのか」
「はい・・・・」
「・・・・おまえがそれほど神子を好いているとは知らなかったが」
「は?」
「だから泣いて月に祈るほど神子にここにいてほしいのだろう?」
「えっと・・・・は、はい。でもわたくしが考え違いをしておりました」
「わかればよい。では用も済んだゆえ私は屋敷に戻る」
「はい、お疲れ様です?」

スタスタと踵を反す泰明を見送りながら女房は再び首を傾げた。

「用は済んだ?」

神子には会えぬままだったのに何の用が済んだのだろう?と考え込む女房。少しはなれたところで泰明の足が止まる。

「いつまで月の光に晒されている。おまえは気の影響を受けやすい。早く局に戻って休むことだ」
「は、はい!」

今宵 彼が誰に会うために来たのか・・・それを知るのは天空の月だけであった。




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