『胡蝶の夢』



秋も深まり随分日が暮れるのが早くなってきたようだ。
庭の篝火が時折パチパチと爆ぜながら燃えるのを遠目に眺めながら高欄の隙間から足を投げ出しブラブラさせている乙女がいた。

「はぁ〜〜〜」

可憐な(と形容する者はいる)姿に似つかわしくないため息を連発している。年のころは十七、八。この世界では立派な結婚適齢期(やや遅め)のお年頃である。

彼女の呼び名は人によって様々だ。

神子姫、源氏の神子、十六夜の君、戦女神まではいいが『獣のような女』とまで呼ぶ失礼な男もいる。
獣…に形容されるのはあまり嬉しくない気もするというものだ。が、どうやら本人は褒め言葉のつもりらしいので咎めだてたことはなかったが。
少女の名は春日望美、摩訶不思議な運命によってこの地に流れ着いた龍神の神子である。

白龍の逆鱗の力を使い、誰もが助かる道はないのかと幾度も運命を駆け巡った後、とうとう源氏と平家が和議するという運命に辿り着いた。

この運命ならば、和議さえ成功させれば、源氏に組する八葉たちも、平家の武将達も死なずにすむのかもしれないとの希望を胸に抱いて。

ここに到るまでには紆余曲折があったものの、どうにか後白河院、清盛、頼朝の三者を動かすことに成功した。
三者それぞれの心を動かすことができる絆を持つものが八葉の中にいたことも天の配剤かと思われる幸運だった。
今ならばこうも思える。この運命に辿り着くためにこそ今までの身を裂かれるような悲しみがあったのかと。
こうして苦労に苦労を重ね、ついでに運命の上書きも重ねまくった結果、曲がりなりにも和議はなり、今、こうして望美は都の邸でのんびりすることができているのだ。

木の香も匂うこの邸は一度は平家が都落ちした際、荒れ果てて放置されていた六波羅の知盛の別邸を急遽修理したものだ。
ここならば、ひきつづき都に睨みを利かすという名目で京に滞在中の梶原景時邸からもそう遠くはない。いつでも朔に会えると望美は喜んでいた。

九郎は兄の国づくりを助けるのだと御家人として鎌倉で働いているが時々は京に上ってくるし、弁慶は六波羅でまた薬師として街の人々の助けとなっており、望美も時々出かけては手伝ったりしている。
ヒノエは熊野別当の職責があるため熊野に戻ってしまったが、神出鬼没な彼のこと、きっとすぐにまた姿を見せることだろう。
敦盛は兄、経正とともに平穏な日々を送っているし、リズヴァーンは鞍馬の奥の庵にまた戻ってしまったがそれでも時折は望美の元に顔を出していた。

有力貴族らしく知盛の現在住まう邸と望美の住まいはかなり離れている。望美の棟に住まうのは、白龍であった。
有川兄弟は邸内に小さい別棟を与えられそこで暮らしている。
将臣は還内府として平家の人望も厚く、その名を名乗る必要がなくなっても彼を慕う者は平家の中に多くいた。
また譲も生真面目な性格とその弓の腕前、何より、料理の才で人々の人気者となっている。男を射止めるにはまず胃を射止めよというが、胃に男も女も無いようで、譲の作り出す料理は平家の中で大人気であった。
特に幼い新院はすっかり譲の料理のファンとなり始終彼に張り付いている。

望美の傍には再び童形をとった白龍もいた。
多くの力を取り戻し、すでに龍の形を取ることは可能であるのだが、望美の行く末を傍近くで…という本人の願いで今も地上に留まっているのだ。
朔の家に新しく成った黒龍がいるのも彼を地上に引き止めている理由のひとつであった。白龍を伴い朔の家を訪ねるのが望美の楽しみとなっていた。よく似た白と黒の童形の龍たちはとてもかわいらしい。

まったく素直な白龍にくらべ、少々気難しい黒龍だが朔にはそれもとてもうれしいらしい。朔がこんなに幸せそうに笑うことを初めて望美は知った。朔の幸福は何よりも嬉しい。
彼女が居なかったらこの見知らぬ世界での出来事がどれほど辛かったか。まだ初対面のときから朔は望美を白龍の神子として信じ、それは大切に
接してくれた。
自分の苦しみを隠し、望美のことだけを第一に考えてくれた。ある運命では兄を捨ててまで望美を選んでくれたほどにこの対の神子との絆は深い。

朔の悲しみをどうするすべもなく見るしかなかった数々の運命を越えてようやくこうして黒龍が蘇る運命を辿ることができて本当に良かったと思う。
望美がずっと願っていた通り、大切な人が誰も死なずに済み、戦は終わった。

これ以上は望むべくもない。

ただひとつの点を除いては。

「終わりよければすべてよし…とはいうけど」

はぁとまたひとつこぼれるため息。

「けれど何なのです?姫君」

ぶらぶらと足を動かしながら想い出にふける望美の背後からふいに声がした。
「銀っ…じゃない、重衡さん」

「銀で結構ですよ。姫君」

「でも」

「あの十六夜の夜、あなたは私をそうお呼びになりました。私にとってもそれは懐かしい思い出です」

「うん。…じゃあ、銀、どうしたの?急に声かけるんだもん。ちょっとびっくりしちゃった」

重衡が優雅に一礼すると辺りに良い香が漂う。

「それはご無礼いたしました。何か御不自由はないかと気になったものですから。随分冷え込んでまいりましたよ。内に入られてはいかがです?」

「うん。そういえば少し寒いかな」

「それはいけませんね。すぐに薬湯を持たせましょう。それとも使いをやって弁慶殿を呼びましょうか」

ぽんぽんと手を叩いて火桶と薬湯を持ってくるよう命じると重衡は心配そうに望美を覗き込んだ。

(うわ、顔、近いよ)

やはり知盛に似ている。

「そこまでたいしたことはないと思うよ。温かくして寝ればきっと一晩で…」

慌てて言う望美を重衡は優雅な仕草で遮った。

「ならばそのお役目、私に与えていただけませんか」

「は?」

「身体を温めるには人肌が一番だと申しますよ」

「はぁぁ!?」

望美の頬が一気に上気する。

「し、し、銀!」

「ほうら、熱も出てきたようです。お顔が赤い」

「違うってば、銀がへんなことを言うからっ」

「失礼を、姫君」

そういうと重衡は軽々と望美を抱き上げた。

「きっと、あのような薄着でおみ足を剥き出しになどなされたせいですね。よくお似合いでしたが。もちろん、今のお姿も可憐で良くお似合いです」

人の話を聞け〜〜と望美は涙目でつっこんだ(心の中でである)

「今日は久々に龍神の神子の装束を拝見しました」

「だってあれは法皇様に龍神の神子として呼ばれたからで」

「ええ、今日は神泉苑で催される祭の試楽でしたね。私も院のお傍近くで見ておりましたよ。貴女の美しい足が殿上人の眼に晒されているのをね」

「そうでした。銀は元の位に戻ったんだったよね。えっと、いまは中将…だっけ?」

ずらりと並んだ公達や武士たちの仲に見知った顔が幾つか見えたのを思い出す。

朝廷の位は望美には良くわからない。今、一番力を持っているのはやはり源氏だと思うが、その棟梁頼朝やその弟 九郎よりも平家の公達のほうが位の上では今はまだ上らしいのだ。

「今の世、位など飾り物に過ぎぬと兄上などは申されておりましたが、神子様と院のご温情だと私は感謝しておりますよ」

「銀、怒ってるの?…その私があの格好で舞を舞ったこと」

平家の客人として相応しくないことをしてしまったのだろうかと望美は不安になった。

「まさか。院のご命令ならば恐れ多いことです。でも少々刺激的だったやもしれませんね。ほかの公卿のへの嫉妬を抑えるのが大変でした。それに私など足元にも及ばないほどお怒りだった方もおられたようですが」

「そ、それって」

「ええ、兄上ですよ」

「うげ」
はなはだ美しくない擬音が望美の口から漏れるのを重衡は見事にスルーした。この男脳内にフィルターを自由自在にかけることができるらしい。

望美はやはりという思いで青ざめていた。
確かに知盛もその場に居た。舞台とは結構距離があったので言葉を交わすこともできなかったが。久々に会えたのが嬉しくて望美が微笑みかけたのに、知盛はまったく無表情で答えてはくれなかった。
いつもの皮肉な「にやり」のほうがまだマシだとすっかり望美は気落ちしていた。知盛に目の前いる重衡並みの甘い微笑を期待したことはないがそれにしても今日の彼は不機嫌すぎた。

望美の冒頭の憂鬱なため息はこのことが原因だったのである。

「やっぱり怒ってたのね…知盛」

「貴女が舞われるのを兄上が剣呑な眼差しで見ておられたのは見物でした。我らが兄弟は揃ってまことに嫉妬深いのですねぇ」

他人事のように言われても…と望美は情けない声を出した。

「銀〜〜」

重衡と違って知盛は言い訳などに耳を傾けてはくれないだろう。

ヘタすると次に会ったときは大喧嘩だ。

「今宵は覚悟なされたほうがよろしいかと」

「こ、今夜来るの!?」

「あの兄上なら来ずにいられますまいよ」

それほど怒っているのなら、確実に大喧嘩だ。また一晩中斬りあうことになるかも…と背中を冷たい汗が流れる。あれは大層きつい経験だった。

「それとも…私に助けを求められますか?」

悪戯っぽく覗き込む重衡が神様のように見える。

「助け?何?何かいい手があるの?」

知盛とまた斬りあうのは避けたい望美はすがる思いで重衡の言葉を待つ。が、重衡はにっこり微笑むと望美に顔を近寄せ耳元で囁いた。

「私のものになるというのはいかがです?」

「し、銀!?」

「貴女は兄上の恋人だが、まだ婚儀が済んだわけではない。今ならまだ私と結ばれても問題ないとは思いませんか?」

ぶんぶんぶんっと勢いよく望美は首を振る。

「ま、まさか!そんなこと」

「貴方のためなら兄上と一戦ということになっても私は構いませんが」

「え、遠慮します」

そんなことを笑ってさらりと言わないでほしい。望美は泣きそう
になった。

「ですが、兄上と貴女との婚儀の話は一向に進んでないのではありませんか」

「う…」

痛いところを突かれてしまった。確かに図星である。
知盛は望美が客人としてこの邸に住まわせることは周囲の反対(おもに有川兄弟)を押し切ってさっさと決めたくせにその後は少しも動こうとしない。

いつまで客人として滞在していればよいのか、知盛は自分をどうするつもりなのか…と望美は今、その気持ちを量りかねているところがあったのだ。

「それはそうだけど」

別にすぐにお嫁さんにして欲しいとかいうつもりはない。
あの性格だ。望美を退屈な女だと判断したら即、打ち捨てて省みなくなる可能性は高い(という類の彼の恋の遍歴は耳が腐るほど周囲から聞こえてきた)。
だけど、やっぱりすべてが欲しいと願ってしまうのは女の子の常というもので。でもなかなか知盛は言質をくれない。

もしかしたら既に知盛にとって自分がここにいるのは重荷になっているのではないかと…すら、最近は考えるようになっていた。

もちろん、恋人といってもプラトニックではない(というかあの知盛に限って清いおつきあいということはありえない)肌を重ねたことは幾夜もあった。
けれどこちらの習慣なのだろうが朝になってさっさと自分の邸に引き上げてしまうのを見送るたびにやるせなさが残るのは何故なのか…(単に疲れている所為という説もあるが)

顔をすっかり曇らせた望美の肩に心配そうに重衡が触れる。

「まさか、元の世界にお帰りになるなどとお考えなのではないでしょうね?姫君」

「…。」

帰りたくはない。でも知盛の気持ちがよくわからない。

「姫君、私は、私は貴女をお帰ししたくなどありません。あなたを先に見つけたのは私なのに」

「銀…」

「十六夜の君。あの夜から貴女のことを忘れたことはなかった…なのに再会したときはあなたはもう…」

「銀、…言わないで」

「あなたはもう兄上を想っておられた。以前から不思議に想っていたのです。あなたがどこで兄上を知られたのか」

「それは…」

逆鱗の力で幾度も運命を巡るうち知盛に惹かれてしまったのだ。
望美にとっては重衡よりも知盛との方が早く出会い、幾度も時を共にしている。が、そんな話は重衡には与り知らぬことだ。

答えに困っていると
「時節や時間など…何の意味がある?…重衡」
と、地の底を這うようなスローな声がして望美はおそるおそるそちらを振り返る。

「知盛…」
思わず望美は立ち上がった。

これを他人が見たら浮気現場を押さえられたと思われかねない雰囲気だ。一方、重衡は落ち着いたものだ。

「兄上、ようやくお出ましですか」

「よく言ってくれる。父上の下に俺を足止めしたはおまえだろうに」

「旅立ちも近いというのに兄上が中々お傍に参られぬを父上が大層お嘆きだったのがお気の毒だったのですよ」

「で、俺のいぬ間にこいつを口説いていたというわけか」

「お慰めしていただけですよ。それと姫君がお風邪をお召しのようでしたのでお見舞いを」

「風邪だと?」

知盛にぐいと顎を持ち上げられまじまじと顔を見つめられて望美の頬に熱が集まる。

「なるほど。紅いな」

「ち、違うの、これは」

「クッ。ならば、その紅い頬はこれとの逢瀬が原因か?」

「と、知盛!」

望美の慌てぶりなどどこ吹く風で重衡はくすくす笑った。

「ほらね、兄上の嫉妬深さは私以上」

「そうだな。それを神子殿に教えて差し上げなくてはな」

「と、とももりぃ〜?」

にやりともしない恋人に望美は内心汗だくだ。
普段から平然とした顔で辛辣な言葉を吐くのには慣れているが本当に怒ったらいったいどんななのか未だ見たことがない気がする。
もともと危なげなオーラを発している男だが今夜は一層剣呑であった。

(なんか怖いよ〜)

「重衡」
知盛の声は低い。その機嫌の悪さを示しているようだ。

「はい、兄上」
が、そんな兄には慣れているのだろうか飄々と重衡は答える。

「邪魔だ。退散しろ」

「随分はっきりおっしゃいますねぇ」

弟に知盛はますます不機嫌な視線を向けた。

「ああ確か…俺とやりあう覚悟があるのだったか」

「今はやめておきましょう。命あってのものだねと申しますし。生きて姫君のお心変わりを待つほうが得策というものです」

知盛の瞳の紫が少し明るくなる。その咽喉がクッと鳴った。

「ほう…俺からこの女を奪うと?…それは楽しみなことだ」

自身ありげに鼻で笑った兄に重衡も負けずに美しい微笑を零す。
こんなときこの兄弟の無駄に似通った美しい容貌が凄みを増すのだ。

(仲がいい兄弟だと思っていたのに〜。く、空気が、痛いんですけどー)
望美は首をすくめ、出て行く重衡をそっと見送る。

出て行きかけていた重衡の足が不意に止まった。

「兄上」

「なんだ?」

「あまり鷹揚に構えていらっしゃると月が天に逃げ帰ってしまいますよ。ねぇ、十六夜の君?」

(こっち振らないでよぉ〜〜〜)

望美の心の声は二人には届かないらしい。といってもやはり声に出す勇気はない。
自慢ではないがむこうの世界でこんなシュチエーションは経験したことがないのだ。美味しいと喜ばしいはずだが、この空気では恐いばかりである。

「…重衡」

「はい」

「かけたることもなしとおもえば…だ」

知盛は望美を引き寄せ髪を指に絡める。
「この女の真名は望美。望の月だ」

「私の十六夜の君は所詮、ゆめまぼろし…とでも仰りたいのですか」

「…さてな。だが…少なくともここにいるのは獣のような…俺の女だ」

知盛の牽制に、重衡はやれやれというように苦笑し、歩き出す。
それをフンと明らかに不機嫌な面持ちで見送ると知盛は気だるげに望美に向き直った。

「さて、神子殿」

「と、知盛?」

「いろいろお聞きしたいことがある」

「聞きたいことって、その昼間のこと?あれは…」

「クッそのようなことはどうでも」

(なんだ〜怒ってないじゃない)

ほっとした瞬間

「きゃっ」
知盛の腕が素早く望美を捉えさっさと寝所に抱き運んでしまう。

「ひゃっ」
冷たい唇を重ねられて思わず望美は声を上げた。思わず指で知盛の鼻の頭に触れた。

「知盛、冷たい…」

「これはご無礼を。…新院の御座所から馬で戻ったばかりゆえな」

新院というのは、壇ノ浦に散る運命を免れたあの少年帝のことである。祖母と共に住まう新院のもとに清盛は滞在している。

「清盛のご用はもういいの?」

「ああ。呼びつけるくせに長居すると邪魔なようだ」

清盛を封印する日が近づいてきていた。
よく出来た妻との語らいによって彼は日々、浄化され封印されることを受け入れているようだった。近頃では将臣のことも「重盛」とは別人だと認識している。
二位の尼と呼ばれ一族の崇敬を受けている時子と童形とはいえ、彼女の愛する夫である清盛との二人の時間を大切にしてやりたいというのが子供達の総意だが、気まぐれな父は寂しいのか始終一族を呼びつけるのだった。

彼を最後に封印して神子としての務めを終えようと望美は考えている。
その日が来たら逆鱗を白龍に返そうと決めていた。

「もうすぐ…だね。清盛を、貴方のお父さんを封印する日」

「その日がきたら…おまえはどうする」

「え?」
知盛の言葉に望美は顔色を失った。

「そ、それって、私に向こうの世界に帰れって…こと?」

「それがおまえの望みか」

やはり知盛は大して自分に執着してないのだとそう思うと泣くまいと思ってもじわりと涙が湧き出てくる。

「…。」

「わからん女だ。何故泣く」

「知盛、そんなに私が邪魔ならちゃんと言って!」

知盛の心を熱くするためにはもっともっと強く彼を満足させるような剣の技を見せなければならないのだろうか。
そうしなければこの恋は続かないとでもいうのか?望美は混乱し涙が止まらなくなっていた。

「あなたを熱くさせることが必要なのなら私、また戦うよ?もっともっと強くなる。あなたを打ち負かして本気にさせてやるんだから」

今度こそ彼に自分を刻み付けてそして…そう心に言い聞かせながらも涙は止まらない。
漏れる嗚咽の合間に知盛の吐息が僅かに聞こえた。

「…相変わらず人の話を聞かない女だ。まぁそんなところも退屈しないがな」

「ぐすんっ…ふぇんっ…」

しゃくりあげながら望美は知盛の言葉を反芻する。
退屈しない…今、確かに知盛はそう言った。

「って、(ぐすんっ)ことは、(ひっく)まだ私に飽きてない、ってこと?」

「鼻をかめ」

知盛の懐紙で涙を拭きながら望美は「ろうゆことよ」と鼻声で尋ねた。

「おまえのような珍妙な女、飽きる暇もない」

「じゃ、なんで?『帰れ』なんてこと…」

「帰れなどといったつもりはないが」

「うっ」
言われてない。

「おまえには世界を選び取る力があるのだろう。どちらを選ぶもお前次第。違うか?神子殿」

「じゃ、知盛は?私が帰っちゃったら知盛はどうするの」

「どうということもない。おまえの世界とやらに行って見るのもいい。一応おまえがこちらで暮らすに備え、いま邸を普請させているが」
そんなこと聞いてない。

「え?普請…って、この家があるのに?」

「俺に有川や龍神と一緒に暮らせとでも?」
さも嫌そうな顔で知盛は答えた。

無理だ。
将臣君はともかく、確実に譲君の胃に穴が開く…と望美は頭をたれた。

「…ごもっともです」

「この邸はあいつらにくれてやる。おまえは新しい邸で俺と暮らす…という算段だったのだが、おまえが向こうに戻るというならそれはそれでかまわない。どうせ源氏の世だ。こちらにいても先は知れている」

「一緒に暮らす…ってことだよね。今みたいに時々会いに来るとかじゃなくて」

「そういうことになるか」

「なるかって…もう!はっきり言ってよ!」

「白龍の神子殿はいたくご聡明だと世に聞こえているが…評判倒れか?」

「知盛がまわりくどいの!」

また目に浮かんだ、しかし今度は嬉しい涙を拭うと照れ顔を隠すようにぽすっと自ら腕の中に納まってきた少女の温もりを確かめながら知盛は低くクックッと笑った。

「でもよかった。今日は知盛が怒ってるって思ったもの」

「…ああ、試楽のことか」

腕の中の望美をゆっくり褥に倒しながら知盛の手はもう胸元の袴の紐にかかっている。
シュッと衣擦れの音が響いた。

「なぜそう思う?」

「だって、昼間はちっとも目も合わせてくれなかったもの。それに銀、じゃない、重衡さんが…」

「フン、あれも策を弄してくるな。俺が父上に呼び出されたはそういうことか」

「どういうこと?」

「院と父上の我侭だ。あの速玉大社での柳花苑を聞きつけたらしい。ぜひ再び舞えと言って来た」

「そんなこと法皇様昼間は何も…」

「おまえが退出した後、誰かがご注進したのだろうよ」

「それって」

「重衡め、舞なら己のほうが上手(うわて)だろうに」

「でも重衡さん、なんでそんなこと…ひゃっ」
肌を滑る知盛の指が擽ったくて望美は思わず身を竦めた。

「あれも大概、複雑な男だ」

万人の目前で神々しく舞う龍神の神子はさぞ都の公卿共の好き心を刺激するだろう。その視線を同じ舞台上で兄に見せ付け嫉妬心を煽って、神子との婚儀を急かしたいのか、はたまた神子に付け入る隙を見つけたいのか…。それとも単に兄をからかって楽しんでいるのか。

いや、その全部かもしれないと知盛は考えた。

ともかく弟が望美にただならぬ関心を寄せていることだけは確かだ。
重衡は、父清盛からも後白河院からもあの人当たりでいたく気に入られているだけに始末が悪い。

「まぁ、見る目はあるということだな」

「何のこと?」

「さてな」

「…また一緒に舞えるんだね」

「俺と舞うのは好きか」

「うん、好き」

「それは光栄の至り」

「んっ」
もう黙れとでもいうように、知盛は望美の唇を再び塞ぐとその体の上に覆いかぶさった。


数日後、神泉苑の舞台に上がる二人を様々な人々がそれぞれの想いを重ねて見守っていた。
消え行く己への餞とするもの、得られなかった神子へせつない思いを抱くもの、今、知盛が死ねば振り出しだななどと本気で考えてるものまでいる(誰とはいえないが)
が、知盛はすべての思惑を身に受けてそれをものともしない。

「あいつのこういうところだけは尊敬できるよな」

将臣の呟きにまだ諦め切れていない譲は肩を落とした。

柳花苑を舞う新中納言と白龍の神子は戯れる二羽の蝶のごとくであったと後々の語り草となったそうである。