『 Meine Rose 』



春の風がオーガンジーのカーテンを揺らし、頬を撫でる。
風に冷たさは無く、花の香を微かに感じた。
お堅いイメージの軍事施設には不似合いな柔らかなカーテンは彼女の部屋限定のアイテムである。



Ludwig.Herzog.von.Mohn.Nahe.Liechtenstein

堂々とした文字で綴られた署名を見つめてアウレリア・フォン・ジルベールは微かに吐息した。

「もう少しお仕事を減らしていただかなくては」

正式な肩書きこそ与えられてはいないものの、行きがかり上とは言え、クーヘンを出てドイツに伴われてから、アウレリアはルードヴィッヒの秘書的な役目を務めている。
激変した周囲の状況を恐ろしく思わないことはなかったけれど、それ以上にルードヴィッヒの強い眼差しの光と垣間見える怜悧な頭脳、崇高な目標を信じてきたからだ。
彼の目指す場所は遠くまた高い。
自分などには考えも及ばないその道程をほんの僅かでも手助けすることが出来たら…そう思ってアウレリアはこの場に臨んでいた。

が、それにしてもルードヴィッヒが連日こなす仕事量が多すぎることは、分刻みのスケジュールを管理しいているアウレリアが一番よく知っていた。

「失礼します。フロイライン・ジルベール」

ノックに続いてルードヴィッヒがよく遣いに寄こす下士官の声にアウレリアは書類から顔を上げた。

「どうぞ。ベッカー軍曹」

顔を出したベッカー軍曹はアウレリアを見ると敬礼した。
敬礼されるのは未だに慣れない。背中がこそばゆい感じがする。

「閣下が何か御用でしょうか?」
「いえ、下にフロイラインにご面会の方が見えているのですが」
「あら、私に?でしたら内線電話で知らせてくださればよかったのに」
「いえ、総統閣下からフロインラインの身辺に関しては特に注意を払うようにとのご下命がございますから」

アウレリアは困ったように眉を潜めた。
どうも最近のルードヴィッヒは過保護な気がする。

「お客様は、どなたでしょう?」
「はい、ヴェルヘルミーネ・ユーリヒと仰る女性です」
「まぁ…ミンナさんだわ」
「お知り合いの方でしたか。ではお通ししても?」
「ええ。お願いします。ローゼンシュトルツ学園でお世話になった先輩です」
「了解しました」

ベッカーが姿を消したドアに向かい、アウレリアはまたため息をつく。
何の肩書きもない自分がさも重要人物のように扱われるのは心苦しい。ルードヴィッヒの好意には深く感謝してはいたけれども。
彼の部下の中には、アウレリアをルードヴィッヒの恋人だと勘違いしているものもいると聞く。
その憶測がルードヴィッヒに特別な想いを抱いている自分はいいとしても崇高なる目的のために邁進しているルードヴィッヒの妨げとなるのではないかと不安でたまらない。
ルードヴィッヒ自身は噂などまったく意に介していないようで、アウレリアを傍近くで庇護しているものだからますます噂が広がるのである。
もしかしたら彼は己の起こした革命によって父親と離れ離れの境遇におかれてしまった自分に対する良心の呵責で傍近くに置き庇護してくれているのだろうとアウレリアは考えていた。
一見冷たく見える彼が実は細やかで優しい感情を押し殺していることを今ではよく承知していた。
が、彼の至高の理想の妨げとなるのはアウレリアの本意ではない。

やはり夕食の後呼ばれて時々お茶の時間を共にするのがまずいのかもしれない。

ルードヴィッヒはアウレリアとのつかの間のコーヒータイムを邪魔されたくないのか、常に人払いをする。それが誤解を呼ぶ元のようだ。
実際は二人の間に恋愛じみた接触はまったくなく、主に政治向きの話に終始しているのが真実だったのだが。

『そなたは筋が良い。さすがに王立上級大学から引きがあるだけのことはある』

対話することによってより己の考えをまとめることが容易になるのだろう、ルードヴィッヒはアウレリアと話すことを好んだ。

『あのままであったら、ゆくゆくは巫女にという話も出たやも知れぬな』

彼が革命を起こさなかったら…今頃自分はあの学園で安穏な学生生活を送っていたのだろうとアウレリアはぼんやりと考えていた。
今の状況を後悔したこともまたそれをする余裕もなかったわけだけれど。

薔薇咲き乱れるローゼンシュトルツ。
未来の使長(シュトラール)を育成するシュトラールクラスを抱える名門校。
その多くは貴族や裕福な資産階級の生徒で占められている。
アウレリアの父ジルベール男爵もこの学園出身であった。
彼は若い頃このドイツに留学してドイツ貴族の令嬢であった母ゼラフィーネと出会い恋に落ちて自分が生まれたのだ。
母は美しい人だった。ゲルマン民族の美を体現するような金髪碧眼で物腰優雅で聡明な貴婦人だった。
顔は少しは母似かもしれないがアウレリアの髪は父ににて栗色だ。また上背も母ほどはなかった。
憧れていた母のブロンド。
ローゼンシュトルツでは(男性だが)オルフェレウスが輝くような金髪でそれを羨ましく思ったものだ。
そして、いま、アウレリアを訪ねてきたというミンナもまた見事な黄金色の髪を持っていた。

ドアがノックされ、アウレリアはとりとめもない思考から開放されると「どうぞ」と応答した。
儀礼上立ち上がってミンナを出迎える。

「お久しぶりです。ミンナさん」

「ええ。あなたもお元気そうね。でもなに?ここ。随分警備が厳しいのね」

下でかなり待たされたのだろう、ミンナの機嫌は少し悪いようだった。

「ユーリヒの娘だと言っているのにあの石頭の軍人ったら」

ルードヴィッヒが起こした革命時、援助協力したのが自分の父であったことがミンナの誇りになっているようであり、そのプライドが少々傷つけられたようだ。
ドイツの総統の地位まで上がった今のルードヴィッヒにとってはおそるるに足りぬ相手かもしれないが、クーヘン随一とされたユーリヒ家の財力はまだまだ侮れない。

「失礼があったのならすみませんでした。このところルーイさまのご命令で警備が強化されているようなのです」

ミンナにソファに座るように勧めるとアウレリアは茶器を手に取った。

「紅茶でよろしいでしょうか?コーヒーもお持ちできますが」

「ありがとう、紅茶を頂くわ。そうね、ルーイ様もいまや総統閣下におなりだし、身辺にはよほどお気をつけにならないと」

「ええ、大変なご時勢ですし」

今はまだ平和なベルリンにも軍靴の足音はひしひしと聞こえてきている。
不穏な空気が人々をどこか落ち着き無くさせていた。
クーヘンやフランスのレジスタンスだけでなく、イギリスのロシアの…と色々なスパイが暗躍している…らしい。

「ところで訪ねてきてくださって嬉しいのですけれど、何か私にご用でも?」

ミンナに会えたことは嬉しいものの、アウレリアにはこなさなければならない仕事が未だある。
ルードヴィッヒ直々に会議用の資料をまとめるよう言い渡されているのだ。


「え?あ、ええ。ちょっとね、お願いがあって」

「なんでしょう?」

「ええ…じつは」

言いにくそうに口篭っていたミンナは意を決したように頬を染めてアウレリアを見つめた。

「ルーイ様のスケジュールを教えてくださらない?」

「え?」

突拍子もないミンナの申し出にアウレリアは驚きの表情を隠せず聞き返した。たったいま身辺警護が大変だという話をしたばかりではないか。

「だって、最近お忙しくてお電話も中々取り次いでいただけないし、お食事のお約束もすっかり延び延びになってしまって」

「は…あ」

「ねぇ、他にどなたかルーイ様に近づく女性がいるんじゃなくって?」

「いえ、そんなことは。本当にお忙しいですから」

「なら…お食事くらいしてくださってもいいと思うの」

「はあ、そうですね」

「あのときお約束してくださったからずっとお待ちしているのに、あんまりだわ」

あのときの約束と言うのはルードヴィッヒがアウレリアを伴ってドイツにやってきた当初、ミンナとその父ユーリヒ氏が現れて彼を食事に誘ったときのことであろう…。
『会食はまたいずれ』
機嫌の悪かったルードヴィッヒの言葉を約束と受け取っているらしい。

(でも、今は無理でしょうね…)

絶望的に満杯のスケジュールを思い浮かべてアウレリアはどうしたものかと考えた。

「ねぇ、オーリィ。あなたは」

「え?」

気づくと探るようにミンナが自分を見つめていた。

「ルーイ様とご一緒にお食事とか取ったりするの?」

「ええ。時々ですけれど。この本営ではそうはありませんが視察先などではご一緒することもありますね」

「そう…羨ましい。私もルーイ様のお傍で働きたいのに、お父様がお許しくださらないのよ。ルーイ様の花嫁になるには対等とまでは行かなくてもなるべく自分を高くってね」

要するにルードヴィッヒの下で働いているようでは彼の花嫁に相応しくないといいたいようだった。
自分への牽制だと思う。

そういえば転校生でかつ下級生のアウレリアは知らなかったがこのミンナについてはマリーンから聞かされた事があった。
「ミンナってぇー、絶対爵位のある人とケッコンするんだってぇ」
ミンナの父はクーヘンでも指折りの富豪だが、俗に言う成り上がりという層で、それが彼女のコンプレックスになっていたらしい。
シュトラール補佐委員になったのを幸いにシュトラール候補生たちに積極的に接近したらしく、マリーンとも幾度か鞘当を演じたと言う。
シュトラール候補生の中でもルードヴィッヒは一番高位の公爵家の嫡男だ。彼の母は国王の妹で彼自身王位継承権第7位を持つ。父方の祖母はプロイセン王室の出身という血統の良さ。
そんな彼はミンナの憧れの対象であった。他のシュトラール候補生といえばオルフェウスが侯爵家の跡取りというくらいだった。
お家騒動に巻き込まれてるエドヴァルドや、伯爵家の末子カミユ、伯爵家とは言え遠い異国の青年ナオジなどは彼女から見ればまったくの対象外だったのだろう。

姓の前に「フォン」を付けることを許されない身をミンナがどれほど口惜しく思っているか、アウレリアには想像もつかない。
なぜならば彼女もまた「アウレリア・フォン・フロイライン・ジルベール」であり、男爵家の一人娘だからである。また母もドイツ貴族の出身であった。
その彼女をもってしても「ルーイの花嫁」になるなどというのは考えはおこしたこともない。
まず男爵家と公爵家では釣り合わない。
父の領地など広大なモーンの領主であるリヒテンシュタイン家とは比ぶるべくもない。
しかも自分は国籍はクーヘン人ではあるがその生い立ちのほとんどをドイツで過ごしている。だから大それた望みは持っていなかった。ルードヴィッヒの傍近くで働けるだけで充分だ。

それゆえ、クーヘン有数の富豪とは言え、無位の身でいまやドイツの総統の地位にあるルードヴィッヒの妻になろうとは…ユーリヒ親子の大望が怖い気がした。

レジスタンス側にいると思われるオーガスタやエーアトベーレに留まっているらしいマリーンの噂などを屈託無く喋るミンナになるべく愛想よく相槌を打ちながらアウレリアは酷く疲れを感じていた。

ジリリリリ

電話が鳴った。

「ごめんなさい、ミンナさん」
断って、電話を取る。

「はい、ジルベー…ルーイさま」

『アウレリア、そなただな?』

「ルーイ様なの!?」

背後でミンナが勢いよく立ち上がる。

『客か』

「はい、ミンナさんがいらしていて…」

『ミンナが』

振り返るとミンナが目でしきりに合図を送ってくるのが目に入る。

「…(ふぅ)…ルーイさま、ミンナさんとご会食のお約束をなさったとお聞きしましたが」

『会食?』

「はい」

『そのような記憶はない』

「あの、ベルリンに到着してすぐですわ。街でユーリヒ様にお会いして…」

『…ああ。あれか』

「いかがいたしましょう」

『…。予定が詰まっている。近日中にスケジュールを調整するということで。…それから先ほどの書類について補足したい事があるのだが』

「かしこまりました」

『書類の件は30分後で良い。私の元に出向くように』

「承知いたしました」

『アウレリア』

「はい?」

『そなた…どうかしたのか』

「いえ、何も…」

『ならば良い。では30分後に』

「はい」

受話器を置いて、小さく息を吐くとアウレリアは期待顔のミンナに向き直った。

「ありがとう。ルーイ様に話してくださって」
にこやかに両手を組むミンナに一層気が重くなる。

「いえ、今日はさすがに急なお話で無理なのですが近日中に必ずスケジュールを調整すると仰っておいででした」

「そう、今日はだめなのね。いま、お会いするのも無理かしら?」

今、取り次いでも彼女のためにはなるまいとアウレリアは眉を潜めた。

「ええ、いま、とてもお忙しくて…すみません、私も今から書類のことで呼ばれているんです」

約束の時間には未だあったが、ルードヴィッヒの前に出る前にもう一度内容を確認して頭に叩き込んでおく必要があった。

「あら…そう。…ごめんなさいね。お仕事中に。私失礼するわ」

気分を害したのか微かにミンナの青い瞳が眇められた。それには気づかないフリをする。

「こちらこそごめんなさい。バタバタしてて。近々スケジュールを調整してご連絡を差し上げるよう取り計らいます」

「あら、あなたがルーイ様のスケジュールを握っているの?」

「いえ、私は管理をしているだけで、お決めになるのはルーイさまですよ?」

「そう、じゃ、よろしくお願いするわ」

「はい」

疲労を感じながらミンナを見送るためにドアのほうに向う。

「あ、ねぇ」

「はい」

「今度総統府主催のパーティーがあると聞いたわ」

「ええ、よくご存知ですね」

「そのときの招待客リストにあるかしら…私の名前」

「…まだ確認はしてないですが、革命時にお世話になったユーリヒさまですから当然あると思いますよ」

「そお、良かったわ。では今度お会いするのはそのパーティーね」

「ええ。今日はゆっくりしていただけなくてすみませんでした」

「いいえ、こちらこそお邪魔してしまって」

じゃあねと軽やかな足取りで廊下を曲がり姿を消したミンナを見送って、アウレリアはどっとソファに座り込んだ。

すっかり毒に当てられた気がする。

一見可憐で美しいミンナだが、ことルードヴィッヒに関してはその執着は強い。

げんなりとするとともに少し羨ましくもあった。

堂々と「ルーイ様、ルーイ様」と彼にアプローチできるその性格が。

大きくため息してアウレリアはソファの背もたれに沈み込むと自嘲した。ため息をひとつつくたびに幸せは逃げていくという。

(今日一日でかなり逃げたわね。私の幸せ)

やがて、おもむろに身を起こした。

「いけない、早く書類を読まなくちゃ」











「失礼します、ルーイさま」

「入るが良い」

「時間ちょうどだな。ミンナは帰ったのか」

「はい」
ミンナとの会話を思い出してまたげんなりする自分を叱咤してアウレリアは急いで書類を確認した。

「では書類の変更箇所を承ります」

「ああ、あれか。では付け足そう。書類を」

「はい、あの…口述筆記でよろしければいたしますが」

「構わぬ」

優雅にペンを取るとルードヴィッヒはさらさらと書類の下に書き足した。

「Dies schliest meinen Bericht.」

「え?ルーイさま?」

『以上』

ルーイが書いたのはたったそれだけのことで。

「次の予定まであとどれほどある?」

「はい、ジークリード様と30分後にお会いになる予定です」

「…では、食事とまではいかぬな」

そういうとルーイは傍らの受話器を取った。

「わたしだ。濃いコーヒーと甘いココアを一杯ずつ頼む」

「ルーイ…さま」


しばらくして湯気たつ珈琲とココアが運ばれてきた。


「疲れたときは甘いものを摂取することだ」

「ありがとうございます」

ほっこりと温まるとともに確かに疲労感が抜けていくようだ。

「近々スケジュールの調整をしておくように」

「あ、はい。ミンナさんとのご会食ですね」

「…ああ、あれは、適当に濁しておけばよい。私が言うのはそなたのスケジュールだ」

「私の?」

「いつも苦労をかけているのだ。そなたはココア一杯で良いと言うがそれでは私の気が済まぬ」

「私は、今のままでも幸せですから」

こうしてルーイの時間をたった30分とはいえ独占していられるのだ。

「本当に欲のない女だ。そなたは」

「そんなことはありません。私だって望みはあります」

ルードヴィッヒに言えば一笑に付されるかまたは不快感を示されるかはわからなかったが。

「では、言ってみるといい」

「でも」

「私には叶えられぬ望みとでも?」

「いえ。これはルーイさまにしか叶えていただけないことなんですけれど」

「私に出来ることなら何なりと叶えよう。そなたにはそれだけの苦労をかけている。まぁ国をひとつといわれても今はまだ困るがな」

「国だなんて…」

長い脚を組み、テーブルに頬杖をつく美しい姿に見とれ頬を染めたアウレリアは勇気を出してお願いしてみようかという気になった。

「本当にわがままを言ってもよろしいでしょうか」

「構わぬ」

「あの…ルーイさまはヴェルヘルミーネさんのことを愛称でお呼びになっていらっしゃいますよね」

「ミンナとは三年間一緒に学んだからな」

「私はまだルーイさまにお目にかかってから日も浅いですし、ただの後輩でしかありませんが、もし…」

「『オーリィ』親しいものはそなたをそう呼ぶのであったな。たしかあのジークリードもそうそなたを呼んでいた」

「は、はい。でもあれは…」

そう、初めて会ったときにジークリードが勝手にあだ名で呼んでナオジに窘められていたのをルードヴィッヒも見ていたではないか。

「そなたが許したわけではないか」

「はい…」

「呼ばぬ」

「え?」

「私はそなたをその愛称などでは呼ばぬ」

「そ、そうですか」

居たたまれなくなってアウレリアはカップを置くと、立ち上がった。
このままいると涙がこぼれてきそうでもっと妙なことを口走ってしまいそうだ。

「おかしなことを申しました。ごめんなさい」

「Meine Rose」

「へ?」

「なんでもない。ジークリードがそろそろ来よう」

「は、はい」

「今日はもう休んでよい、誰かにホテルまで送らせよう」

「はい、ありがとうございます」

恐縮して退室するアウレリアを見送ったルーイの顔に微かな笑みが浮かんでいたことを彼女は知らない。

「可愛いことを言うものだ」

その夜のうちにアウレリアの部屋には両手に抱えきれないほどの淡いピンク色の薔薇が届けられた。

カードにはただ一言


fur meine Rose 『私の薔薇へ』


とだけ、あった。